とある都内の魚屋にて。そこはいろんな魚がまるまる一匹売っているという珍しい魚屋である。いまの時期だと、ハタハタ、どんこ、ハマチ、あー、あとなんだったっけ、ズワイガニもアオリイカも、はたまた新巻鮭まで、いまが旬の魚がまるまる一匹ずらりと売っている。宝の山だ。

まるまる一匹捌いて食いたいと思える自分は某雑誌のお陰か、気がついたら魚を三枚におろせるようにもなり、それぞれの食材についてどう扱っていいかっていう頭があるから、この腰の問題さえなければ持って帰ってまるまる一匹味わってやろうじゃないかと思えたりするのだが。

一般的には「魚は切り身になっていないとどうしようもない」らしい。一般消費者的には確かにそうかもしれない。魚ってのはスーパーで切り身で売ってるもんだ。もんなんだが・・・。それってほんとに美味かったっけ?と。

これを聞いた瞬間、とても腹落ちした。長年の謎が解決された。そうか。日本人は、魚をまるまる一匹食べるということをしなくなったから、それそのものの味が解らなくなっていって、魚が嫌いになっていったのかと。魚っていうものは、まるまる一匹食べて初めて美味いものだったのかもしれない。切り身は所詮、魚における肉の部位だけで、鮭だったら腹の中にはイクラがいて、あらは味噌汁にして、身は味噌とバターでちゃんちゃん焼きにして、または、いくらと混ぜてはらこめしにして・・・。あー、考えるだけでヨダレが出てくる。

魚の、部分だけをみていて、全体から切り離されることによって、本質が失われている。スーパーの切り身から、日本人を魚好きな民族に戻すことは、不可能なんだということを理解した。スーパーの切り身を子供に食べさせて、魚が嫌いになるのは至極当然の話である。かつての、魚好きだった頃の日本人っていうのは、たぶん、全部を食しながら、その調理法もだいたい感覚で解っていたのだろう。たぶん。

(写真は2013年12月、岩手の大槌にて。漁師さんからもらったまるまる一匹の鮭をどうして良いのかわからず、現地の魚屋さんに処理してもらっていた。あー、いまだったら、自分でできるなあ、きっと。と思いつつ。固まったままのいくらを、筋子という。この筋子はこの後、なんと100円ショップで売っているラケットの編み目にこすりつけることによって、いわゆるいくらとしてバラバラになるのである。)