最近、東京の失われてしまって跡形も無いもの、を探して歩いているような気がする。『1590年、徳川家康の関東入り以前の東京は、芦の生い茂る低湿地帯であり、江戸城は岬の突端にあった野城であった。徳川家康はまず日比谷入り江を埋め立てて、城下町をつくって行った』というのは大変有名な話。では「その芦の生い茂る低湿地帯」っていうのはそもそもどういう状態だったのか?ということについて、東京都中心部から北東方向の地域に片鱗が残っているような気がしている。
そもそも、江戸。という名が『江は川あるいは入江とすると、戸は入口を意味するから「江の入り口」に由来した』という。その川は、現在の荒川と、隅田川・中川、江戸川そしてそれらの大元である利根川のことを指す。いわゆる首都圏の水瓶である利根川水系の果てには、江戸と、千葉県・茨城県方向には霞ヶ浦をはじめとする多くの湖沼群があり、この低湿地帯湖沼地域の原始風景が、ちらっと垣間見える場所を東京23区内に発見した。この写真、すべて水生植物で、かつてこの一帯の水辺に当たり前のように生えていたものたちだそう。
東京の西側は、かつて「武蔵野」と呼ばれた。武蔵野は富士山の噴火によってつくられた関東ローム層の上にある肥沃な台地なのだけれど、それと対を成すような、この東京の東側にある低湿地帯湖沼地域を総称する古代地名が見当たらないのはなんでだろう?
千葉・茨城という地名に対する一般的認知があまり明るくないことが、逆にこの環境を守っている結界なのではないかと、邪推すらしてしまう。東京都民・神奈川県民歴が長いだけに、こんなところにあったのか!という目の覚めるような思い。
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