空にちょこっと近い里山、知られざる神奈川県大井町の丘のツアーは、最近「シイノキリトリート」と命名されつつある。リトリートとはなにか。なにを回復するのかという説明をする上でのコンセプトは農体験を通した全体感の繋がりの回復なのかもしれない。

今日は、ブルーベリーを自分で摘んで、石窯で自分でブルーベリーピザを焼いてみる、の農体験イベントの実験だった。写真としては、良いものが撮れた。けれど、やってみて解った大きな事実の一つとしては、あらかじめイベント主催者側で前日に大きくて美味しい完全なブルーベリーを摘んで用意してしまっていて、置いてあると参加者はそれを使ってしまうということ。提供者側の論理で完全なものを用意しなければならないと思ってしまうけれど、それは実は自分で収穫するという体験との接続を打ち切ってしまう。初めてブルーベリー摘みをすると、小さな実ばかりになって美味しくないものをとってしまったりするのだけれど。それを食べてみて、酸っぱかったりして、はじめて失敗したということが解るのかもしれない。最後に、あらかじめ用意していた完璧なものをちょこっと食べてみて、その違いを理解することが、大きな体験的価値なんじゃないかなあ。と、思うのは、都市で生活していると、スーパーで売っているブルーベリーは既に実の状態になっていること。それも売っているのは旬だけで、大半はブルーベリーなんてジャムである。どんな小さなことでも良いから、畑に関与して、それを自ら口に入れるということで、都市生活で切れてしまった導線が多少なりとも繋がることに、大きな大きな価値があるのだ。

畑や川や海の食べものに関与することは、給食やスーパーや外食やら、その他諸々の、都市生活で分断されてしまった、いきものと自分との繋がりを取り戻すというケアとなる。生産者側、供給者側の論理でついつい、本当に良い物を消費者にお届けしたいと思ってしまうけれど、都会の生活の中で失われたものは、実は食べ物の美味しさそのもの、以外の部分にこそ存在する。

それに気づかせてくれたのは、7月の蕎麦刈り農体験イベントのときのことだった。農家さん(70代)が農道を歩いていたとき、ふとすももをもぎ取って「ほらよ!食べてみなよ!」と、いつもの農村ヤクザ言葉と一緒に放り投げてくれた。道ばたに生えているすももが、生えているときのなにやら解らない木の実から、すももという既知の食べ物に切り替わった瞬間。あの生々しさこそ、都市の生活の中で断線していたものが繋がった瞬間だったかもしれない。遡れば、震災後初めて行った東北は石巻の湾の揺れる船上で海から上がってきたばかりの牡蠣を殻から外して差し出された瞬間も、それから、3月の冬から春に切り替わるときに道ばたの畑で咲いている菜の花の付け根が、キャベツだったり白菜だったりして頭のばっくりと割れた異様な光景を目にした瞬間も、それから、これまで何度も見てきた元々生き物であった鹿が、罠にかかりまたは銃で撃たれ解体されて食べ物の肉になった瞬間も。都市生活者が消費者となり下がって断線された生々しさのリアルを再接続することが、今や地方生産者さんたちのできる大きな大きな役割なんだろう。どんなに頑張って素晴らしい地域ブランドを生み出そうとも、もはやこの断絶を越えた価値は創造できまい。

思えば約10年、断線された都市生活者の生々しさを、ひとつひとつ繋ぐということばかりをしているのかもしれない。岡山県西粟倉村のうち捨てられた間伐材に始まり、今現在進行中の案件すべてが、一つ漏らさずこの方式に当てはまる。

西粟倉のひのきの間伐材はいま、都市生活者とリアリティの接続はできているんだろうか・・・。