瀬戸内国際芸術祭によってだいぶ手垢が付いてしまった風景がある。A級戦犯は原研哉氏と日本デザインセンターと電通である。当初会場となった5つの島には、それぞれの地域課題があったが、そんなことお構いなしといわんばかりに、わかりやすい表面だけをこそぎとった、青の多島海の写真を大量に流布させ、多島海=瀬戸内国際芸術祭、という暗黙の認識を多くの人々に植え付け、なんの問題提起もできず、ただの消費型観光に走らせただけという原研哉氏の罪は深い。毒を吐く、というよりは僕なりに事実をこのように認識しているという主張として書いている。

そもそも、芸術祭の開催島である島々はそれぞれ社会問題を抱えていた。急坂の多い男木島は急激な人口減少が、いまやアートの島となって神々しいばかりの直島には三菱マテリアルの工場から出た排ガスによる禿げ山が、豊島には産業廃棄物の不法投棄が、そして大島には20世紀、ハンセン病患者の隔離政策によって、現在は治療を終えた68名の元ハンセン病患者が住んでいる。


瀬戸内国際芸術祭のアート群は、この瀬戸大橋東側の多島海に近代起こった社会問題を浮き彫りにして、その問題に直接興味の無い人へもなにかしら意識を向ける役割が少なからずあったはずである。少なくとも2009年、この芸術祭の準備のためにそれぞれの島を回っていた頃には、そんな話をしていたのだ。関係者の間では。結果は急激な空中戦が展開され、ベネッセ会長の福武総一郎氏個人による億単位の資金投下による美術館新設、千万単位の資金については四国経済産業局と香川県庁と大手広告代理店による観光振興のための広報、高松空港へのアジア圏の国際線やLCC就航などが劇的に功を奏して、あっという間に『アートが好き』な若者達が日本中から集まりある一定の観光発展を遂げたのは周知の通り。魑魅魍魎どもによる『芸術』の名を騙ったただの拝金主義が横行するのみに止まったように、僕からは見えた。一体、島々の何が良くなったのだというのだろうか・・・?

多額の投資が物理的に必要な第二次産業よろしく、第三次産業にも同様の方法論で集中して資本が投下されると、ひずみが生まれるということを2010年、この地域で体感的に学んだ。以来、積極的には近寄らなくなった。2010年のポスターとなった多島海の写真と白抜きで細めの明朝体で校正されたタイポグラフィーで構成されたレイアウトを見るたび思い出す。声大きな者のつくった思想無きデザインなどただの害悪でしかない。とまぁ、瀬戸内国際芸術祭と現代アートを用いた地域振興政策には心底うんざりしていた。


あの、瀬戸内を歩き回った日々から8年が過ぎた。3度の芸術祭の後、多少は落ち着きを取り戻しただろう島々に、久しぶりに足を伸ばしてみたのだが、思いもよらず立ち寄った高松築港からすぐ向かいの女木島の洞窟には鬼がいた。それもだいぶ尖った鬼が。鬼とはそもそもなんであろうか。頭に角が生えてる生き物がいたとは到底考えられないが、海賊がこの島に住んで荒らし回っていたのを、岡山県側の人間『桃太郎』が、それを討伐に来たという話かもしれないし、どこからともなく流れてきた異邦人がここに住んでいたのかもしれない。それは時の政府に必ずしもなびく物達ではなかったかもしれない。

自由意志、自分自身で生きていくものには、時としてカオスな意志が必要なのだ。カオス、chaos、混沌。西洋的二元論では圧倒的悪として常に討伐の対象のようにも見えるが、統治が行き届きすぎてくると、それに反して湧きだしてくるもの。盗賊、海賊、山賊、『賊』という言葉には、なにがなんでも手段を問わず生き抜いてやろうという意志が込められているように思う。このような精神性のバロメーターを「カオスフレーム」と名付けることにしよう。

女木島の鬼達から、アートと名乗ることで、真っ向戦うこともできるんだなあ、ということを学ぶ。いろいろお行儀良くし過ぎていて「カオスフレーム」の数値が下がっていたことを突きつけられたような。作品名『鬼の家』。『カオス*ラウンジ』というグループの作品が2016年開催時にこの洞窟内にあったという。今は地元の小学生達がつくった鬼の面が大量に展示されていたが、瀬戸内ブルー一色に染められた世界に、ただ一点こういう気骨ある作品があったことに救われる思いがした。作品自体は見れていないけれども、たまたま入手したパンフレットに書かれていた内容をここに無断転載したいと思う。


女木島へようこそ。

ぼくたちは「カオス*ラウンジ」というアーティストグループです。この瀬戸内国際芸術祭2016のために、女木島を舞台に『鬼の家』という作品をつくりました。

この作品の主人公は、橋本仙太郎(1890年-1950年)という人です。現在、仙太郎のことを知っている人は、そこまで多くないでしょう。でも、女木島の人はみんな、仙太郎のことを知っています。なぜなら、女木島は橋本仙太郎によって「鬼ヶ島」になったからです。

それは1930年(昭和5年)のことでした。当時、高松市の鬼無町で小学校の先生をしていた仙太郎は、地元新聞(四国民報)に論文『童話「桃太郎」の発祥地は讃岐の鬼無』を発表しました。論文はなんと全50回連載という労作で、そのなかで仙太郎は、鬼無に残る鬼退治伝説を詳細なフィールドワークによって桃太郎伝説と結びつけました。そして、女木島こそが瀬戸内海を跋扈していた海賊=鬼たちの根城であり、鬼ヶ島なのだと言い切ったのです。

じつは、1930年はちょっと不思議な年でした。仙太郎の論文発表だけでなく、向こう岸の岡山では、難波金之助という彫刻家が『桃太郎の史実』を発表して岡山起源説を唱え、さらにはカルトスポットとして現在も有名な愛知県犬山の「桃太郎神社」が造営されて、いわゆる桃太郎の「三大伝説地」がいっせいに出揃ったのが1930年だったのです。

このことは、単なる偶然というわけではありませんでした。もうすこし大きく、この時代を振り返ってみましょう。

仙太郎が活躍した「戦間期」の日本、つまり1920-30年代の日本は、「観光立国」に向けて邁進していました。日露戦争以後、国有鉄道による鉄道網が全国に張り巡らされ、名勝地への観光が身近になったことに加え、各地で海運業者が乱立、1920年代には西洋型「豪華客船」が建造されるようになり、観光客をターゲットにした熾烈な競争が繰り広げられていました。

さらに、世界恐慌のために1931年(昭和6年)に金本位制を停止、1933年(昭和8年)には「満州国」の承認をめぐって国際連盟を脱退するなどの影響で円が大幅に下落したため、訪日外国人観光客が爆発的に増加します。日本経済が停滞するなか、いよいよ観光による外貨獲得が国家の貴重な財源となっていきました。

1930年に、鉄道省の外局として「国際観光局」が設置されます。これまで、半官半民のジャパン・ツーリスト・ビューローがおこなっていた外客誘致と国際観光宣伝を、国際観光局とその外郭団体である国際観光協会(1931年)が担うことになったのです。つまり、観光事業は正式に「国策」になったのでした。

瀬戸内海は、そんな「国策」としての観光事業の聖地となりました。1934年(昭和9年)、雲仙と霧島に並んで、わが国最初の国立公園に指定された瀬戸内海は、明治の終わりごろから海外航路を開拓していた「大阪商船会社」が繁栄をきわめ、豪華客船による瀬戸内観光はまさにドル箱でした。瀬戸内海という観光資源を最大限活かすべく、海から陸から、さまざまな観光ルートがひらかれました。当時の宣伝文句のなかには、瀬戸内海を「銀座」、船を「女性」と見立て、彼女たちとの「瀬戸内海散歩」を勧めるものまでありました。

そして、芸術家たちもまた、この観光ビジネスに動員されることになります。

国際観光局はその初年度、つまり1930年に公式のポスターを発行していますが、「Beutiful Japan」と題されたそのイメージは、いかにもセルフオリエンタルでステレオタイプなものです。このポスターを手がけたのは、当時「大正の広重」と呼ばれて絶大な人気を集めた画家・吉田初三郎でした。初三郎は、江戸時代からの「鳥瞰図」の伝統を継承し、新たに観光地として「発見」された日本各地の風景を描きました。初三郎の描くパノラマの風景は、大胆なデフォルメをほどこしつつも奇抜すぎず、地図としても有用であったため、当時各地で発行されていた観光案内や鉄道沿線案内の仕事が次々と舞い込みました。初三郎は、大正の中ごろから昭和20年代までの30年間でおよそ1600枚もの鳥瞰図を描いたといいます。「大正の北斎」ではなく「大正の広重」というネーミングが、なんとも絶妙に彼の立ち位置を言い当てているでしょう。

さて、仙太郎はまさに、このような瀬戸内海観光ブームのまっただ中で、女木島が鬼ヶ島であると発表したわけです。当然、鬼ヶ島という誰もが理解できる観光資源の発見に、当時の人々が食いつかないわけがありません。女木島は、あっという間に瀬戸内海を代表する観光名所になりました。

しかし、仙太郎の論文に関心を示した人たちは、ちょっと変わった人たちでした。たとえば、黒田清輝の弟子で白馬会のメンバーだった洋画家・矢崎千代二は、1936年(昭和11年)、大阪商船のPR誌『海』に「鬼ヶ島研究」なるエッセイを寄稿し、仙太郎の鬼ヶ島説を絶賛しますが、それは次のような内容でした。

「昨今の観光地化は、地方議員や実業家、役人たちが結託して、土地自慢と繁昌策から出発して芸術家を持ち上げている。権力金力ものをいわせ、宣伝活動をしているのがじつに卑劣で、権力金力が正義を蹂躙する近頃の日本の悪癖を見るようである。それに対し、橋本仙太郎氏は、自分のことでもないのに、世人が伝承を認めないという義憤をもって、私財を投げうって宣伝しているではないか」

矢崎の言う「持ち上げられた芸術家」とは、犬山にアトリエを持っていた縁もあって「日本一桃太郎会」の会長になった吉田初三郎のことです。矢崎は、国が振興する観光バブルに便乗する「国策芸術家」よりも、なんの後ろ盾もないにもかかわらず、歴史への情熱に駆り立てられるままに論文を発表してしまった仙太郎に、とても強く共感していたようです。

矢崎の言っていることは、現代のわたしたちが聞いても、「ドキッとするような内容ではないでしょうか。現代の日本に「国策芸術家」がいるかどうかわかりませんが、国や自治体からの助成金にぶら下がり、毒にも薬にもならない「地域アート」を量産している芸術家はたくさんいます。そして、そのような「地域アート」を批判し、在野でインディペンデントな芸術を追究しようとする芸術家たちもいます。吉田初三郎と橋本仙太郎の対比は、まさに現代日本のアートシーンの寓話としても読めてしまうのです。

カオス*ラウンジは、女木島の歴史を調べている過程で仙太郎に出会い、そして矢崎と同じように、仙太郎に強く共感しました。仙太郎は、もともとは女木とは関係のない人です。そんな「よそ者」である仙太郎が、急に鬼ヶ島だと言って女木島に関わってきた。観光客はたくさん訪れましたが、当時の住民感情は微妙だったとも聞きました。

そして、女木島が観光地として賑わったのも束の間、1937年(昭和12年)に勃発した志那事変をきっかけに観光事業は徐々に抑制され、そのまま太平洋戦争へと突入したのです。仙太郎は戦中も、桃太郎伝説の研究を進め、原稿用紙にびっしりと書き込んだ「桃太郎考証」という資料が、およそ20センチの厚さになるほどあったらしいのですが、戦火の中で失われてしまいました。その研究の内容を知る人は、いまはもう、誰もいません。

ぼくたちはいつのまにか、仙太郎の人物像を、女木島や瀬戸内の繁栄に貢献した英雄というより、女木島にいたという鬼に近いものとして思い浮かべていました。

仙太郎自身は、女木島の鬼を海賊であったと言っていますが、正確に言えば、大陸や東南アジアから海を渡って瀬戸内にたどりついた、さまざまな「他者」たちのことです。

たとえば、女木島には「円山古墳」という、古墳時代後期の古墳があります。円山古墳の内部には石棺が入っていたのですが、その石棺は、当時の日本人の持っていない高度な技術によって作られています。副葬品として、金のイヤリングなどが出土しており、当時の女木に住んでいた人たちが朝鮮半島と交流を持っていたことがわかっています。また、鬼たちが根城にしていたという大洞窟も、最近の調査によればおよそ2000年前の蓮花山採石場(広州)で使用されていた技術によって掘られたものだそうです。

瀬戸内海は昔から「他者」が行き来し、滞留する場所でした。彼らは、時として脅威となりましたが、新しい文物を瀬戸内海にもらたす存在でもありました。そもそも、瀬戸内海をひとつの「内海」とみなし、観光資源となる「風景」として最初に発見したのは、江戸時代にドイツからやってきたシーボルトだったのです。

だとすれば、女木島を「鬼の島」=「他者の島」として発見した仙太郎自身が、女木の人からすればまぎれもない「他者」=「鬼」であったのかもしれません。そして、その仙太郎をまた取り上げ、瀬戸内と女木島をあらためて「他者」の視点で発見しようとしているカオス*ラウンジは、仙太郎と同じことを繰り返しているのかもしれません。

仙太郎のように、他者の歴史に触れようとすれば、自分自身も他者=鬼の領域に踏み込んでゆくことになります。しかし、鬼の領域に踏み込んでゆくことこそ、瀬戸内の本質に触れることなのです。

鬼について考えながら、自らもまた鬼であると気づくこと。きっと『鬼の家』では、そんな体験が待っていることでしょう。

黒瀬陽平

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