今年7月15日の安倍政権による安保法案衆議院通過から、8月15日の70回目の終戦記念日までのあいだに解ったことは、僕らはあまりにも無知だったっていうことである。

左に自己を分類しているものも、右に自己を分類しているものも、また、何も言葉を発さないものも、僕らはただただ無地なまま、インターネットというか、やたらとネット右翼によって右傾化していると言われるTwitterと、ハイソサエティ層が仲間内で仲良しごっこをしている内輪なFacebookという、社会の層によって分断されつつあるメディアによってやたらと声だけ大きくなったように錯覚して、しかし議論になどまったくなっていない、すれ違ってるだけだなぁ、ということを痛感した一ヶ月間。

よく解っていないことを、恐怖感にあおられて、ああだこうだと言い叫び続けるさまは、2011年3月11日の午後からの数日間と同様の、あの集団ヒステリーの久方ぶりの再現である。インターネットによって、人と人が結びついて、より理解しあえるとまでは言わないが、一人一人の人間の想いを言挙げすることができると期待されたメディアのこのざま、つまり、一つの解りやすい事象に自分の想いを重ねれば安心できると思っているかのようなものどもが跋扈しているこの現状を、ここ最近の数多のバッシングについても同様に、どう考えたらよいものだろう。

やたらと、声の大きいものの言葉に「いいね!」ボタンを押すことは、あるいみ自分の無知をさらけ出しているのも同義ではなかろうか。結局、自分のちっぽけな頭で考えるしかないだろう。しかし、考えるための方法は、実は学校教育ではぜんぜん教えてくれないのだ。体験し、問題にぶつかり、疑問に仮説を持って対応する、ということからしか「考える」ということは身につかないのだから。