2009年ダライ・ラマ法王東京講演「地球の未来」への対話 -仏教と科学の共鳴-
speaker:
ダライ・ラマ法王14世(ノーベル平和賞受賞者)
清水博(東京大学名誉教授/NPO法人「場の研究所」所長/薬学博士 )
田坂広志(多摩大学大学院教授/シンクタンク・ソフィアバンク代表/社会起業家フォーラム代表)
竹村真一(文化人類学者/京都造形芸術大学教授/Earth Literacy Program代表)
星野克美(多摩大学大学院教授/日本技術者連盟会長/グローバル・マネジメント・アカデミー会長)
企画・モデレーター:尾中謙文(青山プランニングアーツ代表/認知科学者)
date & place:2009.11.01
両国国技館にて

今回テープ起こしによる原文そのまんまで大変長いので、興味のある箇所からご覧ください。

「現在の心理学というのは、古代インドの哲学と比較すると幼稚園のようなものである。」↓

「そもそも科学は西洋から生まれたが、仏教的概念は含まれていない。宗教と科学との対話を日本のお寺で行ったらどうかという話をしたことがあります。コスモロジーいわば宇宙科学、脳科学、量子物理学、心理学。このあたりの分野の対話を行うことは非常に有益なのではないか。」↓

「脳はなにかをコントロールする機能はないそうです。これは大変仏教のコンセプトに共通しているのですが、キリスト教の感覚からするとコントロールするということになりがちですが。」↓

「若いひとたちには常に新しいことを考えてもらわねばなりません。私もそして四人の先生方も20世紀の産物でありますから、我々はそろそろグッバイであります」↓

「すべての宗教にはコンパッション、思いやりと愛というものにおいては共通します。そういう点において科学的に研究する必要があります。神やブッダを必ずしも信ずる必要はない。そして私は世俗主義です。それをそれぞれの家庭で行えれば良いのです。」↓



竹村
江戸時代の日本の哲学者に三浦梅園という哲学者がいらっしゃいます。その方の有名な言葉に「枯れ木に花咲くを驚くより、生木に花咲くを驚け」という言葉があります。マジックだ!とみんな驚きますけれど、生きている木に花が咲く。そのことにどれだけ驚けるか。そういうことを言っているわけですね。そういう形でありふれた世界の有り難さに驚ける時代が始まってるんじゃないか。たとえば我々の体は日々三千億の細胞が入れ替わっているそうですね。日々我々は新品になりつづけている。自動車が日々新品になりつづけているとしたら驚きますよね。DNAという正確無比なプログラムがそれを動かしていると20世紀の科学は発見したのです。私たちが食べるお米も、2000粒のお米をつくるもとではたった1粒なんですね。光合成というとてつもない有機化学のプロセスによって生まれている。そこに太陽エネルギーを貯蓄して、そこから日々生きている。その生命の魔法っていうのは負のエントロピーをつくりつづけているわけですけども、太陽はあまねく大日如来じゃないですが、分け隔て無くエネルギーを与えている。地球だけはここだけでとてつもない生命形成がされている。インフォメーションのイン「フォルム」ですね。ひとつの形態形成が行われてより上位の秩序が形成されて生命活動が行われている。米が出来るのもそういうプロセスです。とてつもない生命のダンス。そういうクリエイティブなことに使われている。こういうことを現代の科学は明らかにしてくれた。科学というのは私たちの、当たり前なこの世界の有り難さ。レアである。滅多にない奇跡が、この星で起きている。私たちはそういうことを自覚した始めての世代です。科学は、この世界に対する愛情、生命に対する慈悲の思い、謙虚さ。それを与えてくれる。科学は単なる知識ではない。そういう意味で仏教と同じ物を目指していると、私は思うわけです。「尊敬」と「愛」と「謙虚」さです。

ダライ・ラマ
日本を代表する専門家の方々とお話ができて光栄です。ただひとつ問題がありまして、英語でよくつたわっておりませんでした。<同時通訳のミスかと思われる>日本は大変なテクノロジーがあり、物質的な発展があることは、アジアで第一位であると思いますが、しかし人間はというと、そういう状況下においてかならずしもハッピーではありません。たくさんのストレスがある。我々はもっと真剣に心の状況を考えなければなりません。日本あるいは地球において、人間の内部の価値にもっと一般の人たちに教育していかなければならない。例えば私は1959年にインドに行ったわけだが、その頃は環境の大事さはわからなかった。どこでも水は自由に飲めた。だんだんヨーロッパに行っても綺麗な水が自由に飲めないということがわかってきました。この地球こそが唯一の場所であると、深く感じるようになった。

竹村
<マルチメディア地球儀「触れる地球」をビデオで紹介しはじめ、英語で話し続ける>
美しい地球を、我々が宇宙にいかなくても見れるようにする。どの国で出た大気汚染物質も地球をぐるぐる回っている。国単位で規制しても仕方がない。地球温暖化もどこかの氷が溶けたら困る、という話でもない。で、私が申し上げたいのはこういう自己認識を人類が持っていることが一つの希望ではないか。

ダライ・ラマ
環境問題は一国を超えた問題であります。まさにそれは全世界にグローバルな問題でありまして、全人類の将来に関わる問題であります。各国がそれぞれ自分の国の国益を超えて、全世界のために行動しなければならない。不幸にして自分の国の利益が優先され、世界全体の利益を二次的に見るという不幸なことがあります。そのようなことがないように、我々は多くの国で教育をしていかなければならない。

竹村
人類の地球における位置づけについて、法王に意見を伺いたいと思います。ある人は人類は地球のガンであるという。しかし実際にそういう側面もありますが、違う未来をつくる能力もある。「co-creater」共同制作者であると言えるのではないかと思っています。私たちが見ている自然というのは、生物がつくった地球なんですね。大気の五分の一が酸素というのは光合成生物がつくった。その酸素が飽和してオゾンができたおかげで、陸上に生物が住めるようになった。その結果緑の大気圏がつくられるようになった。緑の地球、豊かな土。つまり、私たちは生物と地球を二元論的に分けて考える傾向がありますが、進化の最前線にいた生物が、地球と共進化した。いままでは石油に依存して地球に悪影響を及ぼしていますが、私たちは太陽エネルギーだけで、太陽光発電も、風力発電も、水力発電もできるようになっている。バイオマスもすべて太陽エネルギーでまかなえるようになる。そういう時代を迎えています。決して楽観はできませんが、共に違う未来を考えていける。私たちの社会をデザインしなおすことによって、違う未来をつくれるということを子供達に提示してあげないとかわいそうじゃないですか。生まれてきて最初に覚える言葉が、地球に未来はないよってことばっかりだから。大人が希望をクリエイトしていくのが大事なんじゃないか。

ダライ・ラマ
基本的にこの地球にはたくさんの動物がいるわけですけど、その中では人間はもっとも素晴らしい存在であります。想像力や知力をつかって生きてきました。我々は地球を壊すようなこともやってきました。言うなれば人間は世界における唯一のトラブルメーカーです。我々人間は欲も智慧ももっております。必要以上にものをつくり、消費したりします。いろいろな問題をつくってきたことは事実であります。しかし、我々は地球に住んでいるという事実はかえられません。ということは、我々は我々のもっている想像力や知恵を持って、良い方に導くという道義的責任を持っている。すなわち他の人を尊敬し、他の人を助けて一緒に地球を守り、世界を守るということが責任であり、それをいかに認識するかということだと思います。我々はたくさんの問題も作り出すが、たくさんの問題を解決できる。

星野
私は環境と未来というテーマでありますが、法王がほとんどお話されてしまったのでどうしようかなというところなのですが。人口をあまり増やさないようにした方がよいのではないか。物質的な資源を大量に消費して、経済成長の持続をと言いますけれども、まだまだ貧しい国もあるわけですから。それは地球規模で考えた時には物質的な生産をこのあたりで押さえたほうがいいのではないか。人口と成長の抑制というテーマですが。G8で政府の首脳部の発言を調べておりましても、そのような発言はまだ出てこない。まずは各国の首脳部に対する環境教育が必要なのではないか。私たちはどのような時代を生きているのだろうか。ある段階までは続くと思いますが、人類は現時点ですでに地球1.2個分の資源を消費してしまう。2050年になると、2.5~3個分の地球が必要になるといいます。でも、実際にはそんなことはないんじゃないか。この地球を飛び出してどこかの惑星で生きるということはできないんですね。

ダライ・ラマ
このことに関しましては私は専門家でもありませんのでよくわかりません。ひとつ言えることは、世界には非常に大きなギャップがある。豊かな人と貧しい人のギャップがある。多くの先進国の人々の生き方に過剰なライフスタイルがある。それは縮小させるべきでありましょう。そういう点では経済を縮小するということはありうると思いますが、世界にはまだ貧しい人々がいるわけで、そういうところはもっと富を増やしていかなければならない。こういう点では経済は非常に大事です。もっと自動車をつくらなければなりません。いまお話いただいた中で人口の問題に関しては非常に重要な問題であります。もう既に最近私が生きている間に世界の人口はどんどん増えて参りましたし、90億人に達すると言われる。これはあきらかに多すぎる。そういう点において世界の人々をもっと教育する必要がある。人口問題に関しまして、ときどきジョークを言うのですが「人口問題に対処するためにはもっと私のような坊さん尼さんを増やした方がいい。笑」と言います。

星野
私はもしこの経済を少しづつ縮小するとしたら、それは先進国かもしれないと思うんですね。今日の仏教の話を経済の仕組み、制度、システムの中に取り込むようなことがありうるのではないか、という問題提起をしたいと思います。これは私のオリジナルの考え方ではなく、既に1970年代にE・F・シューマッハーという経済学者がスモール・イズ・ビューティフルという著作の中で仏教徒の経済、ということを相当数のページを割いて提案しています。大きくなりすぎない。小さくても幸せと平和を確保できるかもしれない。そのような意味も含まれた経済学の本なのですが。具体的には仏教徒を観察していると、生命を大事にする、必要以上のものを持たない、けれども満足、充足できる暮らし方をしている。そのことにシューマッハーは驚いたんだと思います。仏教には私は十分勉強しておりませんが、生き物を殺さない。殺生をしない。これは私どもも子供の頃から教えてこられました。しかしながら人間は殺生をしすぎているんですね。欲望を抑制しながら人間性を純化していく仏教徒の姿を、新しい人間像としてシューマッハーは評価しているのです。それを経済の仕組みの中に作り出す。成長しすぎない、資源をつかいすぎない。植物にしても動物にしても、取りすぎないように注意しながら、欲望をコントロールしながら生きていく、そのような仕組みを経済の中に作り出していくことを、40年前に提案しているんですね。私は30代にこの本を読んだのですが、以後地球経済の流れを見ていると、今まさにスモール・イズ・ビューティフルという考え方を、まずは先進国から、そして途上国にもそのようなものを同時に作り出していくということが求められている時代だと思うんです。

ダライ・ラマ
その通りだと思います。スモール・イズ・ビューティフルということですけども、ほとんどの宗教に共通することでもあります。キリスト教の僧院でも非常に簡単な生活を趣旨としてまして、ほとんどの主な宗教には簡単な生活を行うことが伝統となっております。しかしながら、そのような伝統がありながら必ずしもそれを実施していないムスリムにしてもキリスト教徒にしても、どうしても自分たちの宗教のことが主になって、共通の伝統ということを守っていないことは問題であります。仏教経済ということは聞いたことがありますけれども、小さいことは美しいということは原則でありますけども詳しくはわかりません。いずれにしても現代の我々の生活には非常にたくさんのストレスがあります。それは主としては欲とか恐れとか相手に対する不信といったものから出てきます。あるいは嫉妬、極端な競争からもストレスは生まれます。ストレスを減らして平和な内的な心を求めなければなりません。心の静けさは役にたつことでありまして、心にも肉体にもよいことであるとされています。心の平和をさらに追求するということが大事ではありませんか。

星野
元はといえば自然崩壊は精神の崩壊である、ということに私はあるときに気がついたのです。自然とか環境は私たちの外部でありますが、それをどのように関係づけていくかということは、私たちの精神のもちかたによります。地球の自然が痛んでいる、これを人間の手で守って再生していくということが先ほどのお話でありましたけれども。本当に私が気づいたのは、2000年頃のことですが、イギリスの湖水地方へ旅行したことがあります。あれは産業革命の時代に鉄道とかホテルができることを、市民運動で防いで、そして詩人のワーズ・ワースが庶民もお金を持ち寄って土地を買い占めたわけです。ここはナショナル・トラストの発祥の地であります。そこを現実に私は見たときに、日本はどれほど自然を破壊してきたのかという落差を感じて愕然としたことがあります。日本の場合はどんな都市の周辺に行っても、必ず山を削ったゴルフ場を見ます。これは自然破壊の典型であります。ワーズ・ワースの誌の一節なんですが「人間の感動は自然から生まれる。静かな心の状態も自然のたまものなのだ」それから、女性の科学者で「沈黙の春」1960年代の環境破壊の報告者ですが、レイチェル・カーソンなんですね。「Sense of Wonder」というキーワードの本を書いています。「地球の美しさに深く思いを巡らせる人は、生き生きとした精神力を保ち続けることができるでしょう」この二つの言葉は、自然と接触するということで魂と精神が幸福であり平和であり、他の人々に対しても同じ心を共有することができる。高層マンションやビルといったものをつくってしまったことは、これは都市計画として大きな問題であるかもしれない。で、最後ですけども、日本にこういう童話があるのです。「夕焼け小焼け」の歌なのですが。私は文学を解剖する記号論のようなこともやっているのですが「夕焼け小焼けで日が暮れて」これは一日の自然のサイクルが終わって、夕焼けであるということは明日は晴れる。また明日は希望に満ちて生きるという意味合いがあるかもしれません。二番目に「山のお寺の鐘が鳴る」これは、里山には寺がありますね仏教の精神や生活の作法が村人達の日常生活に、もちろん子供達にも浸透していたはずですよね。三番目「おーててつないで皆かえろ」こういう子供見たことありますか?最近。私どもは確かにそのけんかをしあったりしても、子供の中にコミュニティ、フレンドシップ、まさに友達という精神や実際の行動が根付いていたと思うのです。そして最後「からすも一緒にかえりましょー」今都会でカラスを見たら嫌悪感感じませんか?でもそれは人間がはき出したゴミにカラスが群がるからです。カラスは生き物、生物の象徴だと思うのです。生き物も村人達も同じ感性を通じ合って「Sense of Wonder」を共有しながらですね、子供達の生活があったということをこの同様は象徴しているように思えてなりません。

ダライ・ラマ
たくさんの生命体があるわけですけども、それは全て我々は尊敬しなければならないというお話だと思いますけれども。たとえばインドにおきましては昔からずっと非暴力という伝統があります。他の生命体を尊重するということからきていまして、日本でも神道では非常に自然を尊重するという精神がありました。しかし科学の発展にともなって我々は自然をコントロールできるということが強くなってきたのではないでしょうか。温度なんかも我々は変えることができる。温暖化についてもテクノロジーでそれを押さえることができるというふうに考えがちでありますが、実際は自然の方がテクノロジーよりももっと強力であります。例えば私たちは昔から木を大事にしてきました。木から果物ができ、生物が育つ。そしてシェルターにもなって雨から守り、家もできる。ほとんど我々のすべては人工的な環境に住んでいても、ほとんどの人はなにか新しいものが欲しいと思っております。庭に植物を植えたり、小規模ながらもベランダに植物を植えたり、小規模ながらも自然とふれあっていたい、という思いを我々はもっております。そこで私はなにか一つの研究調査をしたらいいと思うのですけども、人間の心的状況のこと。お百姓さんたちと都市に住んでいる百万長者達を比べて、どっちがより心の平和をもっているか。私はお百姓さんたちの方が、より平和な安心できる心構えを持っているのではないかと思います。これはもっと科学的な調査研究をするに値することであります。

清水
私は科学はもう変わらないといけないというところまできていると思います。科学のパラダイムシフトを実行するために20年間くらい研究をしてきました。いままでの科学を全部否定するのではありません。もっと科学の領域を広げるということ。いままでの科学は客観的な現象を相手に研究してきたわけです。それを主観的なことも含めて科学を研究する。そのことによって科学が豊かになるということは、もうずいぶん前に湯川秀樹先生がおっしゃっていることです。なかなかこのことが難しいので実行できなかった。私たちが「生きていく」ということに結びつけて考えてきたわけでです。例えば新潟大地震で非常に綺麗な山古志村っていう新潟の地域が、景観が変わっちゃうくらいつぶれてしまいました。それで住んでいた人が生きているかどうか、っていう問題ですね。で、この人が「生きているかどうか」っていう判断は科学の問題です。科学っていうのは「生きている」かどうかっていうことを問題にする。その後で「生きている」人が次にぶつかる問題、どうして「生きていく」かっていう問題。「生きている」っていうことと「生きていく」っていうことは違うでしょ?生きていくためにはなにをどうして食べていくか、どこに住むかっていう問題が少なくとも必要なわけです。科学の問題点は「生きている」ということは解明していけると思いますけれども、「生きていく」ということはいままで解明できなかったわけです。なぜなら「生きていく」ということは主観の問題なんです。一人一人が生きていくこととは違うでしょ。こういうことは科学の問題にならなかった。ちゃんと研究できるような科学をつくろう。ということをやってきたんですね。それができるとなにができるかっていうと、我々とはなんであるか?っていうことがわかる。いままで我々っていうと政治の問題であったり、民族の問題であったり、宗教の問題であったり、あるいは哲学の問題っていうこともあるかもしれない。我々と我々がぶつかって紛争が起こったり、ここ200年くらいそういうことがずっと続いている。この我々っていうものにちゃんと陽を当てていかないと、これからいくら美しいことを言ってもうまくいかないんです。我々っていうものがどういうものなのか、科学の上でもきちんと考えなければならないってことが出てきたわけです。それからもう一つの問題としては・・・

尾中
清水さん!ひとつひとついきましょう。

清水
倫理の問題は・・・?

尾中
その次にしましょう。要約しますと・・・<省略します>

ダライ・ラマ
すべてのアクティビティは、幸福も苦痛も、心的なメンタルなものであります。肉体的なものと心的なもの、この二つのストレスを考えますと、心的なものの方が重要であります。我々はよく肉体的なものにおいてレクリエーションすることにより苦痛を和らげることを行いますが、これは心的なものにも可能であります。心的なものの方がより優れているということがいえるでしょう。科学はここ100年の間は外的なことばかり目を向けてまいりました。肉体的な健康を調べるとそれは「見る」ということでありますが、だんだん最近になるに連れて、メンタルな面、エモーショナルな面も医学として取り上げられるようになりました。より深い研究調査が行われるようになり、脳科学が進み、それから人間の心理へと進んでいったわけです。こういう形でいわゆるハードサイエンスから、ソフトなサイエンスへとどんどん変わっていき、これは非常に素晴らしいことでありますけども、最近になってよりホリスティックな、全体的なものへと動いてきております。肉体的な面、人間の精神への研究、そういったことを一体化して研究していくということにだんだんと動いてきており、これは大変素晴らしいことだと思っております。

清水
私の言ったことに十分お答えいただいていないと思いますね。なぜこういうことになるかっていうと、英語で「生きている」と「生きていく」をどう表現するかということが、どうも難しいのではないかという気がします。もっと具体的な問題に入っていきますと、私が言っている「生きている」と「生きていく」ってのは、どう違うかっていうことをご説明することができると思うのですが、法王がご本の中で「なぜ近代生物学は競争だけを根本的な活動原理と認め、生き物の根本的な習性として攻撃性でしか認めないのでしょうか、なぜ協力を活動の原点とすることを拒み、利他主義や思いやりといった習性も発展に関与する可能性を考えないのでしょうか」これは法王の生物進化のことに関して言われたことです。私は、なぜこのようになるか、っていうことを考えると、ダーウィンが「生きている」ということにだけ注目して進化論を考えたからこのようなことになっていると思っております。「生きていく」ということだけ中心にして進化論をつくると、ここでとられている協力とか利他ということが出てくるんです。私たちがこうして毎日生きているっていうことは、たくさんの生き物を食べてるんです。私たちの食物のほとんどは生きている命をいただいて生きている。これは人間だけではありませんよ。人間以外の生き物もそういうかたちになっている。なにか有機物を食べて生き物は生きている。自分の命をほかのものに、贈与、している。贈与を受けて贈与をしているという形がつくられている。このかたちがあるということは、人間だけじゃ生きていけないってことでしょ?人間以外の弱い生き物がいっぱいこの地球の上で生きていなければ、人間は生きていけない。このたとえは昔から続いていますよね。生態学的な循環の中に生きている。大地の恵み。地球から食べ物をいただいて、また地球に返す。さきほど、山古志村の話をしましたけれども、あれだけ自然がなくなってしまうと、どうやって循環が生まれるのか。それがわからないのです。このことがなぜ科学に入らないのでしょうか。科学者は、不幸にして追い詰められて自殺をして死ぬよりしょうがないという人を、私も知っているのですが、その人が「生きている」かどうか、ということだけ医者はチェックをする。難しいんだったら一生懸命「生きている」状態を回復させるわけです。生きている問題を解決している。「生きている」というのはその人が社会の中で存在しているということでしょ?だから、十分回復したんだから「おめでとうございます。今日で退院です」と言われると、病院を出て行くんです。で、私の知っているひとは次に、非常に慎重に自殺をして、今度は死んでしまったんです。だから「生きている」ということはできたんだけども「生きていく」ということの間に、非常にギャップがある。今地球の上で問われているのはいかにして「生きていく」ということじゃあないんですか?山古志村のように荒れちゃった地球の上でどうやって生きていくか?このことに対して、なぜ科学が関わらないのかこの問題は主観的な問題であると言いました。当然意識に関わる問題であります。しかし、意識だけの問題として定義できる問題でもない。そこに私が言いたいことがあるんですね。

ダライ・ラマ
科学的な発見というものは、いままで一般的に言って人の利益になってきました。しかしながら、これからもっと長い歴史で身体的にも肉体的にも健康的に生きていく場合に、いままでの科学は心の面よりも物の面に注意を払ってきたというのはこれは事実であります。従ってこれからは、心やエモーションを大事にしていかなければなりません。近代科学はそういったものには相対的にはあまり十分な注意をはらってきませんでした。しかしながら、時代が変われば当然科学は変わらなければならない。結果として我々の知識は非常にふくらみ、洗練された言葉で見ることができる進んだものになりました。そういうところで科学はこれからいわば「現実」を見通す。そして脳やあるいは意識といったようなものにも深い研究をしていかなければなりません。

それから、肉体的に二つのレベルがある。我々の体には免疫機能というものが含まれているのですけども、免疫機能によって我々の肉体を害するものをやっつけるという働きをしているのですけども、逆に我々の肉体に役立つ物も取り入れるという機能も備わっているのです。まったくそれと同じように感情面でもまったく同じ二つの機能が備わっているといえると思います。感情面でも私たちに害を及ぼすような、破壊的な感情、怒りとか競争心とか嫉妬とか、そのようなものですけども、私たち自身の心をかき乱してしまうようなものをなくして、取り除いていくと。そして私たちの感情面で役にたつものを取り入れていくことをしなければならない。

清水
やっぱりこれは一度時間をかけて対談しなければ行けないんではないかと思いますけれど、私は生きていくかたちができるためには二重生命っていうことが必要なのではないかと思っているのです。それはどういうことかというと地球のことを考えるより、私たちの体のことを考えるのですが、たくさんの細胞が、一番冒頭に竹村さんがお話になったようにいちにちたくさんの細胞が生まれ、たくさんの細胞が死んでいくということをやっているのですが、それだけではないですね。私たちには個体としての命がある。私の場合だったら「しみずひろし」といういのちをたくさんの細胞の命がつくりまして、それから個体から、命をもらっている。助けられているという循環が起きている。細胞が死ぬことも個体にとって必然のことなんでこれは個体に対する贈与なんです。ところが一方では生まれてから活動するまで個体の中の細胞が飛び出した細胞をもっと元気にする、これはどういうことかというと個体の命から命への贈与を受けている。だから贈与の循環ということが起きているんですね。私は今詳しく説明している時間はないんですけども、地球に生きる生き物、人間も含めて、その間には贈与の瞬間があるんです。生き物の命をそのまま差し出すだけじゃなくて、働きを差し出して助けるということもあるんです。その中でどういうことが起きるかというと「ドラマが起きる」んです。成長し、いろんな病気に対しては適応していくというドラマが起きてるじゃあないですか。いわば役者となって、地球上にドラマをつくっていくということが本来「生きていく」という姿なのです。で、現在はこの姿を失っているんです。例えば目先の利益だけを考えますね。資本主義が目先の利益だけで動いていて「生きていく」という形ができていないんじゃないでしょうか。ここに問題があるわけです。私たちは役者になって、地球の上に生命のかたちをつくっていくということが、希望をつくっていくということなのです。

田坂
科学と心の進化ということですが、そんな難しい話をするよりも今日、ダライ・ラマ法王とお話をすることは本当に楽しみにしておりました。おそらく宗教的な感覚というのはほんのちょっとしたもののとらえ方で我々の中にもあると思うんですね。たとえば法王はかねて「悟りへの道は人との出会いを通じて我々はそれに目覚めていくんだ」ということをおっしゃっていたと思うんですけども、これ本当に素晴らしいメッセージかと思います。今日我々この会場に三千名くらいいらっしゃる。単に偶然集まったと思えばそれまでなんですけども、三千名の方々とご一緒のこの一つの場に集まっているということは、先ほど竹村さんがおっしゃった「有り難い」っていうことですよね。これは私は日本語で有り難い、っていう言葉は英語で「It is Miracle」ってことだと思います。「It is Happen(起こる)」ではなく「It is Miracle(奇跡的)」みなさんよく考えてみてください。地球上いま67億人が生きているわけですよね。百年くらいの人生、一瞬をかけぬけていくなかで、どれだけの人と本当に巡り会い、心を交わすことができるのかと考えると、ダライ・ラマ法王のもとにみんなで心のふれあいの場を持てるということは、極めて有り難いことが起こっていると思う。今日隣に座ってらっしゃる方は、実はもしかしたら奇跡のように巡り会った方なんじゃないか。単なる「meet(会う)」ということを超えて、「encounter(縁)」出会うということにまなざしが向いたときに非常に深い宗教的感覚が生まれるということです。

そのことを申し上げた上で、改めてダライ・ラマ法王に一つささやかな提言があります。社会に大変な影響力を持たれる法王でありますのでささやかに申し上げますが、これからの時代は宗教の中でですね、最先端の科学を教えるべきではないのか。と申し上げますのは実は、我々本当に深い宗教的なマインドを感じ取るときに、今の科学の最先端が自然にそれを我々に感じさせてくれるということがあるんですねぇ。これは法王の「科学への旅」という本の中で書かれていることですが、最新の宇宙科学、ビッグバン宇宙の話です。これはそのまま子供達に素直に聞かせてあげたらいいと思います。我々いまここで心が巡り会った、その心とはいったいどこからやってきたんだろうか?と考えるとですね、実は我々いまここにいることの原因にさかのぼると、137億年前にさかのぼる。その前になにがあったのかと聞かれれば、なにもなかった。量子真空と呼ばれる真空しかなかった。それがあると聞くと意外だと言うんですね。これは宗教の話ではなく最先端の科学の話です。その意外な瞬間に無数の宇宙が生まれたと言われているんですねぇ。無数の宇宙があたかも泡が生まれるように生まれて、その中のほとんどはすぐに潰れていったっていうんですね。そして今のこの宇宙だけがなぜか生き残っている。科学者の計算によれば生まれたときの膨張する速度が10億分の1ちいさかったりおおきかったりするだけで、この宇宙はすぐにつぶれてしまっているか、破裂してしまって存在していない。おそらく先ほどの竹村さんの言葉を借りればこの宇宙も有り難い惑星ですけども、実はこの宇宙そのものが奇跡のように生まれているものなんだ。その宇宙が137億年かけて、素晴らしい生命をはぐくみ、人間という欲望をもった生命を生み出し、こうして今を生きているわけですね。おそらく我々子供達に本当に教えてあげるべきことは、こういうことなのではないか。科学の最先端を教えてあげるだけで、自然に宗教的に一番深い感覚、まさに「Sence of Wonder」ですね。なぜこんな不思議なことが起こったんだろうか。自然に我々非常に宗教的に深いところに向かっているんだと思います。

今日の対話のタイトルは「仏教と科学の対話」です。対話という言葉の意味は単に語り合うということを超えて、ダイアローグという言葉の語源が「dialectic」弁証法という意味ですね。少し難しい言葉ですが、お互いに相反するように見える、ということが実は一つのものに見事に統合されているということが弁証法ということです。まさに21世紀初頭において我々が成すべきは、宗教と科学の統合、融合。その第一歩はおそらく宗教の世界で科学の最先端の出来事をそのまま次の世代の子供達に教えてあげることなのではないか。そのとき我々は自然に有り難い、まさに不思議なことが起こってるんだ、この有り難いという感覚は宗教的なところに向かっていくのではないだろうかとそんなように感じるのです。

ダライ・ラマ
宗教と科学の対話ということが言われておりました。あるとき、ある人が、西洋人ですけども、私にこういう風に言ったことがあります。「科学と宗教が対話をするのはいいけれども、気をつけた方がいいですよと。なぜなら科学は宗教を信用しないから」と言われたことがあります。それは私も解るんですけども、しかしながら仏教に関してはそうではありません。例えばブッダ、釈尊自身が「私に献身するからといって、私の言っていることを信じてはいけない。あなた方は徹底的に調査して実験して、その結果私の言ったことが納得をいったなら信じろと」けして盲目的に私の言ったことを信じてはいけないというふうにブッダ自身が言っております。従いまして仏教に関しては心配はいりませんと。宗教と科学との対話はなにも心配する必要はありません。と言ったわけです。もちろん現代の科学、そこから生まれた知恵に関しては、もの、特に外的なものに関しては非常に進んでおります。そういうものから、我々宗教人は大いに学ばなければなりません。他方、人間の感情、エモーション、人間の心というものに関しては、現代の心理学と古代インドの哲学とを比べますと、現代の心理学というものは、まだ幼稚園のようなものです。特に医学関係者に関しましてはエモーション、心というものにもっと強い関心を持って学ばなければならない。特に古代インドの知恵から学ぶことは大いにあると思います。心については仏教の考え方は現代科学者にとって非常に役に立つものであります。そういったことに関して積極的に関心をわかちあって、一緒に研究する。古代のインドの哲学に関しても大いに学ぶところがあると思います。

科学者が、心、あるいは脳というものに関して非常に深い研究をしております。我々ともいろいろな形で協力しております。例えばアメリカのウィスコンシン大学にリチャード・デイビッドソンという脳の専門家がおりまして、彼が脳と心との関係について、深い研究をしており、彼の研究によりますと、メディテイション、黙想によって脳に変化を起こすことができるという結果が既に出ております。我々チベットの僧院はエモリー大学と協力して、五年間の共同研究計画をやることになっております。科学的な成果をチベット語に翻訳しておりまして、そういうかたちで我々と近代科学との間の共同研究がなされようとしております。我々は仏教を三つに分けております。一つは、仏教科学、二番目は仏教哲学といいますか、仏教概念。そして三番目は宗教としての仏教であります。例えばメディテイションといったこと、ネクストライフというか人間の次の世界、死後の世界はどうなのか。そういうことは宗教でありますから。これは科学者のビジネスではありませんので、我々宗教の専門であります。したがいましてこの三つにわけた上でブッディズムサイエンス。科学の分野におきまして我々は近代科学と密接な協力をすることができる。心についてより深く知ることができる。インナーサイエンスとアウターサイエンスがより密接に協力をして心の問題に対する知識が増えていくということになります。そして終局的には心ということに関して我々の知識はより増える、ということになるでありましょう。

現在の科学者というのはほとんど西洋の人であります。言うなれば仏教国の人ではない、ということになりますでしょうか。従いまして私は東の方の国、特に仏教関連の国におきまして科学との対話を行うということに私は非常に強い熱意を持っております。いつだったか日本に参りましたときに、日本のあるお寺に行って昼食の後にそこのお寺の人たちとごく普通の会話をしたときに「そういう日本のお寺を中心に科学との対話をしたらどうか」と言いました。その場合に私は四つの科学を考えております。一つはコスモロジーいわば宇宙科学。二番目は脳科学。三番目は量子物理学。四番目は心理学。と。この四つの分野が宗教との対話において非常に有益な分野だと思っております。さきほども言いましたように、仏教の芽がある国に、つまり日本でやるということがもっとも最適ではないかと思っております。大学の教員にも協力を得て、積極的に進めていけたらと思っております。しかしながらそういうことを言いますと世間の人たちは、私は仏教を推進していると、仏教を応援していると言う人たちがおります。しかしそれは正しくありません。私は自分の仏教を押しつけるつもりは毛頭ありません。それよりもみなさんは自分の宗教に従っていただいたほうがいい。そしてお互いにそれを尊重していけば我々は自由に討議をすることができます。そういうかたちで宗教と科学の対話が行われなければなりません。まあいずれにしてもこの日本がそういうことを行う上で、最もふさわしい場所ではないかと思っております。

田坂
法王にもう一つだけ提言を行いたいと思います。二番目の提言は仏教と心理学との融合です。ただ、ここで心理学という意味を深く申し上げますと、我々もっと深い研究をしなければならないのではないか。私とはなにか。これについて我々簡単に私とはなにかを言いますけれども、実はみなさんお気づきのように我々の中に何人もの自分がいることは日々お感じになられていることだと思うんです。星を見上げるときに非常にロマンティックな気持ちになる自分もいれば、腹が減ったといって腹を立てる自分もいる。そしてそれ以上にわからないのが無意識。潜在意識と呼ばれる世界。自分とは、その無意識まで含めた自分を言うんだろうか?さらに西洋ではご存じのようにユングあたりが出てきて、多くの人々の無意識の世界が繋がっている。と言い出したわけです。そうすると私とはいったいなんなのか?この問いそのものが非常に深い問いとして21世紀、改めて問われている。なぜかと言えば環境破壊も犯罪も、一人一人の心だけから生まれてくるようには、どうも見えないんですね。昔とある有名な方の言葉に「地獄への道は善意で敷き詰められている」みんなよかれと思って生きているのに、なぜ社会はこんな風に悪い方向に向かってしまうのだろうか。おそらく我々の心の奥深くのなにかが悪い方向に向かっていっているようにも見えます。特にそのときに気をつけなければならないことがメディアの影響力。例えばテレビのチャンネルをひねれば殺人だ戦争だテロだということが次々流される。これが我々の心の深い無意識の世界にどのような影響を与えているんだろうか。さらにはもし集合的無意識と呼ばれるコレクティブ・コンシャスネスというものがあるならば、そこにどのような影響が蓄積しているんだろうか。この問いこそ、我々は今問うべきなんではないかと思うのです。そしてその視点に立ったとき、まさに法王がおっしゃったように仏教には昔から阿頼耶識(あらやしき)末那識(まなしき)、と呼ばれるこの潜在意識の世界、さらには集合的無意識の世界を扱った理論も体系もあります。まさに今こそまだ現代の心理学は幼児期かもしれない。だとすれば仏教と心理学が深く結びつくことによって、これからの地球環境問題をはじめとするグローバルクライシスを超えていくためにも我々の中で、私とはなにか、私の心はどこまで深い世界と繋がっているのか。いや、さらに申し上げれば宇宙が137億年前にこの世界を生み出し、137億年かけて生命を生み出し人間を生み出し心を生み出し、その心が無意識を生み出し、もしそれが集合的無意識の世界を生み出したのであれば、その彼方にはなにがやってくるのだろうか。我々の心の進化の旅路はどこに向かうんだろうか。それを正面か問う科学が、そして仏教がいま求められているような気が致します。

ダライ・ラマ
ご指摘の通り人間の意識にはいろいろなレベルがあるということはお話いただいている通りです。目覚めている状況、すべての感覚が生きているというか、活性化している状況、それからあまりそれはもう活性化はしていないという状況もあります。無意識ということもありますし、気を失うという状況もあります。あるいは無意識という状況その中にもいろいろなものがあるのであります。したがいましてそういうことに


— 以下録音失敗箇所(藤沢久美さんのレポートより http://togetter.com/li/574) —
ダライ・ラマ
精神のステージは無数にある。こと切れ、死んでも、意識は存在する。脳科学者によれば、脳は中央集権システムではなく、バラバラに協力し合っているらしい。これは仏教の教えと通じる。まさに意識、精神について、宗教と精神科学(心理学)が融合して、問うべき課題だ

田坂
意識に働きかけるという意味で、メディアの存在をどう考えるか。

ダライ・ラマ
メディアの存在は極めて重要である。特に子供には大きな影響を与える。無意識にも大いに働きかける。だからこそ、平和や思いやりを伝えるべき。

田坂
我々は、未来に希望を伝えているだろうか。今我々は、多くの課題に直面している。しかし、これは、より素晴らしいものを切り拓くチャンスと捉えるべき。金融危機を経て、生まれてきたボランタリー経済もまたその一例。「病は福音なり」という言葉がある。まさに今。
— /lost —


ダライ・ラマ
20世紀の後半に向かいまして、大きな変化がありました。たとえば20年代、30年代に向かいましては戦争はもはや不可避と思われておりました。そしてその中に核兵器などの兵器に大変なお金を使いました。しかしながら20世紀後半になってこの戦争は不可避だという考え方はもうなくなってしまった。そして共存という考え方が根付いたのであります。ソ連や東欧といった全体主義国家も崩壊いたしました。アメリカもまたキューバを認めるというふうにもなってきた。もちろんこちらの方には中国、北朝鮮、ベトナムといった国々がまだ残っておりますけども、そういったことに関しては力ではなくて平和でもって解決していこうという機運が非常に高まってきております。イラク戦争のときにみなさんご記憶だと思いますが、何百万という人々が反対の声を上げました。オーストラリアからアメリカに至るまで多くの人々がイラク戦争に反対だという声をあげたのであります。20世紀の前半におきましては戦争が起こるというと、その戦争の当事国の国民はほとんどその戦争をしている政府を支持したわけでありますが、これはもうすっかり変わってしまった。

それからもうひとつエコロジーという考え方。このような考え方は以前はまったくありませんでした。ところが今はもう政党でさえも常にエコロジーエコロジーということを言い、そしてグリーンパーティーというエコロジー専門の政党ができております。私はよく冗談で言うんですけども「もし私が政党に入るのならば、グリーンパーティーに入るよ」と。日本ではまだグリーンパーティーというのはできていないようですが。それからかつては精神と科学というものはまったく別の物だと思われておりました。今では非常に密接なものであると認識されるようになっております。従って十分希望の証拠はあります。私自身は基本的には楽観的、希望を持っております。しかしもっと努力をしなければなりません。教育を通して、若い人たちに希望を植え付けていかなければならない。我々はこういう危険に直面してきたんだ、いままでは心の狭い人たちが、いろいろ悪いことをしてきたし、誘惑に負けていろいろ非常に危険な状態をつくってきた。そしてこれは我々にとってはチャレンジなんだ。新しい考え方をつくっていかなければならないんだということを若い人たちに伝えていかなければなりません。今の状態では不十分なんだっていうことを教えていかなければなりません。もうこれで十分なんだ。満足なんだっていうことではないのです。常にやはり新しい生き方、新しい行動を求める考え方を若い人たちに植え付けていかなければなりません。

我々ここにいる人たちに、私も、ここにいる四人の先生方もみんな20世紀の産物でありますから、我々はもうそろそろ「グッバイ」であります。そしてその次には21世紀の若い人たちに、いままでどのようなことが起こってきたか。自己中心的な考え方によってどういう危険を招いてきたかということを彼らに伝えなければなりません。20世紀にはなんと2億人の人々が殺されたのです。従って我々は平和的な方法で解決する道を見つけなければなりません。新しい考え方、新しい心の持ち方を若い人たちに教えていく必要があります。

尾中
会場の方からもいくつかお話を伺いたいと思います。

エドワード鈴木
宗教という言葉を表すラテン語は「関係を結ぶ」という意味があります。したがって、宗教上では人間等価という意味もなしているのですが、先端科学の分野では物質宇宙の根底にはものがなく関係性しかないということが明らかになっております。ちょっときざかと思われると思いますが、愛、思いやりが不可欠なのではないかと思っております。ただ残念ながら、この地球を救う時間も残っておりません。法王様にお聞きしたいのは、どうしたら一番端的に最も効率よく、この愛、思いやりという力を世界に広めることができるでしょうか。

ダライ・ラマ
世界の宗教には二つ種類があります。一つは仏教、あるいは善のようなかたちのもの。もう一つは神を信ずるという形のものでありますけれども、すべての宗教は共通した一つの信念というものを持っております。しかしながら神ということに関しては、唯一の存在ということに関してはこれを科学ではその存在を証明することもできませんし、それは存在しないということを証明することもできません。しかし、すべての宗教は「compassion」思いやりと寛容、愛といったようなことに関しては、すべての宗教が基本的な概念として持っているものです。したがってすべての宗教にはこの思いやり、コンパッションを高めるという点において潜在力をもっております。しかしそれと同時に世界には宗教というものを信じない、神も仏も信じないという人たちもたくさんおります。そういう人たちも非常に大切であります。宗教というものは大事で潜在力はあるけれどもそれを超えて、いわば人間の思いやりというものをこれからは促進していかなければなりません。必ずしも宗教のことを話さなくてもいいのです。科学、研究調査ということを通して、愛というものの重要性、平和な心の持ち方がどのようなものなのかということを更に探求していく必要があるのです。そういう点で私は、世俗主義を信ずるものです。すなわち宗教にとらわれることなく、宗教なしで世俗的に愛や思いやりといったものを、全世界的な、全宇宙的な価値を高めていくということです。宗教にこだわるひつようはなにもないし、神でもない、別にブッダでも必ずしも必要はない。そういうことは、すべての人に示すことができるものであるからです。例えば、母親は非常に子供を大事にいたします。これは動物でもそうです。鳥の母親が、どうやって鳥の子供達を面倒見ているのかということを見てもよくわかります。それこそコンパッションなのであります。宗教なのではありません。それはある意味で生物学的なことですら、あるのです。こういうことは若いときには解っているものでありますが、だんだん成長すると我々は段々と、自分でできると、いろんなことができるんだと他の人は必ずしも必要ないと考えるようになります。それによって人間の最も基本的なことを忘れ、そして他人を支配しようとするようになるのです。従って、我々は教育ということに特別心を注がなければなりません。すなわち、脳の働きと、暖かい心の持ち方、思いやりということを結合して、新しい科学を通してそういったことを促進していくわけです。そうでなければまた嫉妬、欲望、欲といったことがどんどんと高まっていって、これがまた破壊に繋がっていきます。もっと全宇宙的なものを、必ずしも神である必要はない。どうやって生きていくのかということが先ほどありましたけれども、いかに幸せを求めるかということであり、いかに恐れや嫉妬や、そういう強い欲望といったことがなく、平和に生きるかということであります。特に若い人を教育して、全人類に共通する幸せな心の状態をどうやって持つことができるか、より多くの努力をする必要があります。

尾中
法王さまから本日の登壇者にプレゼントがあります。

ダライ・ラマ
白いスカーフであります。思いやり、あるいは寛容ということを表しております。もうひとつ、スカーフは非常にスムーズでありますから、穏やかで寛容であるということを示しております。これはインドの伝統からきたものであります。インドでは伝統的にお客様にはショールを送るということになっております。そしてこのスカーフそのものの物体は、実は中国製であります。しかしながらこれはチベットの指示によって中国でつくったというものでありまして、そこにはチベット語でなにか書いてありますが、中国の人はそれはなにが書いてあるかは解りません。笑。従いまして、これはインドとチベットと中国との融合を表す贈り物でもあります。

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