「風立ちぬ」この映画の感想を書き始めて20日が経つが、いまだ腑に落ちていないことだらけである。きっと、この映画を見た人はまだ誰も消化しきれていないのではないだろうか。いまだ口の中にある状態で、それが5年、10年かけて、腑に落ちていくような。そんな長大な重厚さを持ったアニメーション映画だ。なので、今の時点で理解しつつあることをここに記録する。


解らないことに媚びない

二年前の「コクリコ坂から」に続き、腹にぐぐぐぐぐっと押し込まれてくるような、たいへん大人のジブリ映画である。満員の映画館から、上映中、物音一つ聞こえてこない静寂さ。緊張感。そして、場面遷移についてさえまったく説明が無い。解らない人に対してまったく媚びておらず(人によっては)理解を進めるためには後に本を読むなり調べ物をするように促される。そうやって、子供は子供なりに重圧感からなにかを感じ取り、自発的に学ぶ機会を得る。いまの映像作品はなにからなにまで説明が過ぎる。「説明しなければ伝わらないこと」と「伝わること」はまったく意味が違うのだと思う。


自分の好きな世界を好きなように表現する

僕は「コクリコ坂から」を見終えたときは、なにか悔しい、嫉妬のようなものを感じていた。ああ、このタイミングでその時代(1960年代)を表現するのか、先にやられちゃった悔しさみたいなものがあった。けれど、今回はもう、こういうものが作れる70代のおじいちゃんになれたらいいなぁと、そう思うしかなかった。司馬遼太郎の「坂の上の雲」の如く、ここに宮崎駿監督の人生の集大成を見た。

宮崎駿監督はこの映画で、徹底的に自分のために自分の好きな世界を好きなように表現している。これは、ものをつくる人間の最高の贅沢の一つだと思うし、中途半端にやってしまったら独りよがりの痛々しい映画ができるだけである。大抵、ものをつくっている人間はそういうことをやってしまった苦々しい思い出が、一つや二つ存在するのだが。だからこそ、この映画にはとても自信が無かったんだろうか「余韻泥棒」と言われて問題になった映画館での4分間の予告編など、そこまでするのかというほど丁寧なプロモーションが二重三重に周到に用意されていた。それともう一つ、大事な伏線が存在する。




戦争のイメージによってかき消されてしまった時代を、僕らはもっと知りたい

日本人として作家業をやっているからには、これから絶対に書かなければならない時代というものがある。1905年、日露戦争でのかろうじての勝利までは司馬遼太郎が書いた。司馬遼太郎はそこから先の、あまりにも日本人の栄光の無い暗澹たる時代を書くことはできなかった。それから明治・大正が終わり、昭和の時代に入ってから、太平洋戦争が終結するまでの20年を知るには、戦争を中心とした決まりきった定番の偏った情報ばかりをインプットされ続けてきて、僕らはもうずっと前からうんざりしていた。

原爆投下や空襲の戦争の話よりも、ほんとはその時代の空気感をもっと知りたいんだ。どんな家並みがあって、どんな服を着た人達がいて、どんな言葉を喋っていたのか。単純にその頃の美しかった風景に戻ればいいとは思わない。だけど、おじいさん、ひいおじいさんたちが、どうやって生きてきたのか、決まり切った戦争のイメージによってかき消されていて。僕らはあまりにも知らなさすぎる。宮崎駿監督は、実家の宮崎航空興学という飛行機工場に通ずるゼロ戦(正式にはその原型である九試単座戦闘機)の設計者、堀越二郎を主人公として、その状況に確信犯的に、明確な意思を持って切り込んだ。

・・・と、ここまでは映画を見終えた僕の妄想である。事実かどうかは知らない。


後戻りのできない、美しさ

後戻りのできない時代の中、昔の人たち、映画の中の主人公達は、与えられた時間を精いっぱい生きている。その絶頂が上映終了10分前、「まるで外国にいるようだ」というセリフが出てくる「逆ガルウイング」のラインが美しい九試単座戦闘機の飛翔であり、サナトリウムへと帰る奈緒子の行動であり。この矛盾を抱えたままの潔さに、今の時代、膨大な選択肢の中で生きている我々は、どうしようもなく考えさせられる。(そして、エンディングで歌われる「ひこうき雲」の歌詞が、その心情を言語化する。この曲の歌詞から逆算して映画をつくったのかと思えるくらいに)



(原作である「月刊モデルグラフィックス」より)


「創造的人生の持ち時間は10年だ。 君の10年を力を尽くして生きなさい」

イタリアの航空機設計技師カプローニが夢の中で主人公に問う、創造的人生の持ち時間とはなんだろうか。人生の中で最も創造的であれる時間が、必ずどこかにひそんでおり、その期間が始まると10年くらい持続するものである。ということだろうか。あれは、宮崎駿監督が自身の体験として言っているとすれば、彼の10年とは、風の谷のナウシカから紅の豚までの10年だったんだろうか。


僕は2013年に突入してからの半年間、あまりに忙しかった。受注的に大量にものをつくっており、常に誰かの夢を描くことばかりしていた。考える余裕さえ無くなり、ついにはヴィジョンを失いかけていた。そんなタイミングに宮崎駿監督からパンチをくらった。冷房のよく効いた映画館で、スタッフロールが終了した後、汗だくになっていた。

そうだ。仕事をせねば。