「風通しの良さ」。という概念があるように思う。「血の巡りが良い」と呼んでもいいのかもしれないけれど。ある種の停滞感、しがらみから解放されて新しいことを始めようと前向きに積極的な姿勢がとれる状態、または、それが起こりやすい環境のこと。と定義しようと思う。たぶん最初に僕が「風通しの良さ」を意識したのは2006年頃、紅葉真っ盛りのちょうど今頃の季節の京都であった。外来種として東京からやってきた僕にとって、京都という土地は太陽と月ほどのまったくの異文化であり、新天地でもあった。自分の中で新しい風が吹いていた。

一年が経ち二年が経った頃、京都という土地は想像以上に停滞が起こりやすい場所なんだと、重力が他の土地の二倍も三倍も強いということに気がついた頃。そこに居ながらにして、どうやって新しい風を吹き込ませるかを考えるようになった。最初に自分自身が来訪者として訪れていた頃のように、京都にやってくる来訪者が、ちょっと泊まれて、美味しいものが食べられる場所をつくってみた。それは決して、京都の人口を増やしたいなどとは思っていないし(むしろ減るべきだ)子供を増やさなければなどとも思っていなく。僕自身が「風通しの良い」人達と出会っていたかったからだ。

いま、地域再生の現場において、徳島県神山町、島根県海士町、岡山県西粟倉村において、起こっていることは、この「風通しの良い」環境をつくっていくことによって、ただ、質量的に人口を増やそうというわけではなく、血の巡りが良い状態を地域的に作り出そうという運動なのだと理解している。京都での僕の実験は、今年の春に終わってしまったのだが、神山と海士でインスパイアされ、西粟倉での実験に遠巻きながら参加させてもらってかれこれ5年近くが経つが、改めてこの「風通しの良さ」とはなんなんだろう?

民俗学者の折口信夫は、神は内なる所に存在するのではなく、異邦からやってくるものであると、マレビト思想を展開していたり。学校創立から20年ほどの間のSFCにもそんな「風通しの良さ」を感じ続けていたり。ソニーやアップルの創業期にもそんな「風通しの良い」環境を上手に作り出すことができていたから、人が集まることによって起こりがちなしがらみや、停滞感から解放されて、そこになにかしらの新しいプロダクトが生まれてきたんじゃないかと思う。

ここ数年、友人となる人はみな、日本中のどこかで、この「風通しの良さ」を感じる人達であることも事実なわけで。地域・田舎そのものには、やっぱり興味が無いなあと改めて思うのである。