「まつろはぬ民」について。菜の花の沖 第三巻 司馬遼太郎著

江戸時代中期の北前船の廻船問屋、高田屋嘉兵衛が、はじめて自分の船をつくり、北前航路を経て蝦夷地松前を訪れる、その直前のくだり。



一つの社会に住んでいるひとびとが、ある遠隔地について、「そこまでの距離こそ遠いが、しかしそれは自分達の社会の一部である」とおもうのは、何によってであろうか。また、江戸時代中期、松前・蝦夷地という遠隔地をひとびとがどうおもってきたか、ということについて考えてみたい。

日本の場合、稲作社会であるということが、それを考える上で決定的に大きな要因といっていい。紀元前三百年か、もしくはそれより古く、海のかなたから稲とそのつくり方がつたわって、稲作を中心とする小社会が各地にできた。

ー中略ー

その基本イメージは、稲作社会が、ローラーで地ならしするようにひろがってゆくというものであった。つまりは稲作という共同作業を必要とするムラがふえてゆく。そういう「稲作ムラ」特有の秩序感覚や対人関係、上下の論理、さらには風俗、それに稲作儀礼という土俗宗教も、一ツ型としてふえてゆく。感情まで類型化される。その累計がふえてゆき、ふえることによって、似たような人間仲間ーー民族ーーができあがるのである。

つまりは、その累計にあてはまらない地域を、外とした。「外」が、外国をさし、異民族をさすという近代的な概念ではなく、漠然とした感覚の上でのことである。律令時代、中央・地方の政権はときに遠くへ兵を出して「制服」したとされるが、実態としては、

 ーー稲作のすすめ。
というべきもので、かれらが降伏して稲作をはじめればそれでよしとされた。極端にいえば律令政権は「稲作を勧める公社」というべきであり、そのすすめに応じない集団を外の者とし、輸入した漢字をつかって、夷(えびす)とした。これらによって、律令初期、奥羽に多数いた非稲作者は稲作社会に編入され、その地方が社会の一部になり、遠い地から近い地になるのである。

ー中略ー

蝦夷地という、アヒルの足の裏のようなかたちをした土地に、古くはどういう歴史があったか、わかりにくい。古代史でいう、えぞ・えみし、といわれるひとびとが、アイヌと同一民族であったかどうかについても、容易には断定しがたい。むしろ『古事記』や『日本書紀』に出てくる蝦夷は、人種論的な概念とみるべきでなく、ざっといえば、

 ーー中央が押しすすめている弥生式の稲作農耕になじまず、従ってその生産社会に属せず、むかしからのこの列島における伝統的な暮らしかたである採集(狩猟や河川漁業)生活をまもり、その採集者社会を頑なに維持しているひとびと。とみるほうがいい。そのなかに、現在のアイヌの祖というべき採集文化のひとたちもいたであろう。

 「まつろはぬ者」
と、古語でよばれる人達は、水田農業をしない、ということにすぎない。

やがて、平安期の中期ごろになると、日本列島は津軽のはしまで水田農耕社会になった。この間、混血がおこなわれ、「蝦夷」もまた現在の日本人の祖先の一派になった。日本人が、朝鮮民族に比べて多毛な人が多いのは、その混血の結果によるのではないかと思われる。

奈良・平安期に、しばしば越後、出羽、陸奥に遠征軍が派遣されたとするが、それでもなお水田農耕社会に入ることを好まなかったひとびとが、蝦夷地に渡ったと想像しても、さほど大きなあやまりではない。あるいはまた、沿海州やオホーツク海の沿岸やその島々からも採集者がこの島にきた。

いま北海道の網走などにその貝塚があり、また土器や各種石器のたぐいも、オホーツク文化独特のものが出土している。そのなかに、本土製の蕨手刀や刀子、槍といった鉄器もまじっているから、奈良・平安期に、北海道の一民族であるオホーツク人(いまのギリヤーク人の祖であろう)は、すでにどういう形によるものにせよ、本土文化との交流をもっていたことになる。

ともかくも、ふるい時代の北海道は、わざわざ農耕をせずとも採集だけで十分食べてゆける島であった。鰊や鮭の群来がくれば、それをつかみどりしていればよい。いわば採集生活の天国であるために、逆にいえば高度の漁法は発達しなければ、高い文化が発達しにくい。

アイヌたちは、そのようにしてくらしてきた。