デザインの窓 第6回 染師/吉岡幸雄編
speaker:竹村真一氏×吉岡幸雄氏
date & place:2007年2月22日
大手町カフェにて

※ 当記事は筆者が現場で速記した記録であり、聞き間違え等も含めて事実と異なっている場合があります


竹村
吉岡さんの工房にも何度か伺って。植物は食べてもよし染めてもよしって感じなんですが。これは展示かなにかをされていたんですか?

吉岡
植物染料の基本色で、話をするときのためにつくってあるんです。街には色が氾濫してるんですけど、自然からとったものの色の深みとか。日本の色の話はすぐにわびだのさびだのって話になってしまうんですが。自然のものからとってくると非常に美しい。色というものの文化的、、、いろんな地域で文明が発達するんですけど、発達すればするほどいろいろな色が使えるようになる。世界の文明をさぐっていくと、鮮明な色とか光輝くような色を求めて、人類は色の構築をやってきたんだなぁってことがわかります。シルクロード。一つの文明とちょっと遠いところの文明が個別にあった時代っていうのがあったんですね。ある文明とある文明が融合したり、交換したりっていう時代がある。我々の染色の基本は、メソポタミアや中国、それぞれで発達してきたわけなんですけども、技術をいろいろ探求していくと、誰もおしえあってないのに、けっこう同じことしている。エジプトにきても同じことしている。技術が交換しあって伝わってくることもある。エジプトではつくれても、ペルシャではつくれないものは材料を交換したり、技術を交換したり。人間て色に対する欲望は強くて2-3000年前から色を買ったり盗んだりしている。

竹村
世界を視野に入れた話になってますけど、最初からそういった文明論をやっておられたわけではなくて、出版のお仕事をされていたり、家業をされていた。

吉岡
出版をやってましたんで、ほかの美術や工芸を20代のときに世界中で見てきたんです。だんだん自分の中の記憶のなかにそういうものが蓄積されていたんです。今は染屋のおっさんなんですけども、継ぐと言うことは毛頭考えていなかった。40歳までは。自分の家業をおもしろいと思ったのではなくて、昔の人間ていうのは立派なもんだなぁと。コンピュータが発達していてコミュニケーションは早くなっているけれど、今の人たちは文明の中で最も進化した状態に居るんじゃないかと錯覚しているんじゃないかって思い始めたんですね。最初から極論を申し上げるんですけども、染色の技術のピークは奈良時代だったと思うんですね。それからどんどん下がっていく。平成の時代の染屋なんでブレーキをかける方法を知らないんじゃないかって思う。

竹村
いくらやっても1200年前の人にはかなわんなぁって思ってやられていると伺います。正倉院のぎょぶつ。世界文化交流のシルクロードの頃に、色を求めて、、、

吉岡
東洋。中国を中心とした大きな文明の傘の中に我々はいるわけですが、自身を持つべきことがたくさんあると思う。衣の発明。中国で始まった絹を、カイコさんをかって、まゆをとってそれを自分たちの衣類にした。ってことは世界中に誇れる発明だと思うんですね。絹を発見してから中国は、、、絹を国家的なプロジェクトで量産できるようにする。綺麗な織物を織るために、どのような華やかな色に染めるかっていうことに国家的プロジェクトで取り組んだんですね。あくまで中国というものが主体であって、絹の道という言葉ができていった。植物染料をいかに美しく染めるかというときに、文明の始まりがあったと思う。絹に対する憧れっていうのが文明の促進剤になったんですね。木綿や麻からとった繊維は若干色があせるんですね。だけどここにあるこの色は絹からとっているんです。

竹村
絹は抗ガン剤になるとかで注目されていたりしますが、カイコさんが、自分の子供達を守るまゆだからこそ、紫外線カットして、、、よくできていて当たり前でしょう。

吉岡
自然のおかいこさんが、成長していくときに口から糸をはいていくっていうのを観察していったときに、、、家産。家でつくる。世界でどこの国にいたときにも、シリアのパルミラ遺跡。2000年くらい前の墓の中には絹の織物がたくさんでてくる。でももともとは羊を飼っているところですから。つまり2000年くらい前にはもう絹を物々交換していたってことです。これを見てみると、感激するくらい2000年前のシルクは美しいんです。金と同じ目方で交換したんだなってことがわかります。自分たちのところでウールに染めた糸を横糸で使いながら、というような融合がもう2000年くらい前にあるんですね。ローマ皇帝まで行くともう既にシルクに染めたマントを身にまとっていたっていう。

竹村
植物染料って、色であると共に薬ですよね。

吉岡
ウコンなんかも、黄色を染めるのにインドではたくさん使ってきた。よく薬学の先生と話すんですが、色にならない薬は無いんです。薬にならない色も無い。タンニンは茶色に染まる。防菌作用のためにある。その一部の葉っぱから我々はお茶を飲んでいる。色で言えば茶色ってことになる。

竹村
藍もそうですよね。ブルージーンズ。へびがよってこないとかむしがよってこないとか。太古の昔から藍染めってものが生命力を高めてくれるってことで使われていましたからね。

吉岡
ちょっと古い綿のかすりなんか見たら、みなさん、日本の色やねぇ、ってまことしやかに言うんです。僕から見たら、藍を染めてない民族なんていないんです。よっぽどエスキモーでもない限り。

竹村
動物の生をもらって色を染める。植物染めは微生物を染めているわけですが。

吉岡
藍の場合は煎じたりしないで、はっぱをかったあとに水をかけて腐らせて腐葉土のようにして発酵菌にして、アルカリ性の葉をいれると、自らぶくぶく発酵していく。そこに布をいれると染まる。古代の人々ってのは経験上からそういうことを学んだ。藍をたてる。

竹村
人をたてる。庭の石も、石をたてるといいますね。花ももともとたてるものだった。

吉岡
インドに言っても、アメリカインディアンのジーンズの元も、みんな同じ手法なんですね。アンデス行ってもある。コロンブスがアメリカ大陸行くまでは交流がなかったんですから、どっかで自然に生まれたのか、少なくとも2000年前までは分断されたどちらの国にもそういった技術があったわけですね。ダメな技術を捨てていって、残った技術っていうのがそういうものだったんじゃないかなぁと思っているんですね。

竹村
我々は染まりあがった色だけ見て、綺麗ねぇ、って言うんですが、結果しか見ていない。行程で命のやりとりをしているんですね。骨太の情報のやりとりがあるんじゃないかって思うんですね。その部分を未来に継承しないで、なにを継承するんだって思うんですが。

吉岡
古いことっていうか、染屋に戻ろうと思ったのは、染屋の前の世代の150年前はどうしていたのか、もっとさかのぼったらどうしていたんだろうかって思った。人間はどうやってコミュニケーションをしていたんだろうか。麻とか木綿とかウールとか、どうやって染めてきたのか。古い人がやってきたことをやればあんまり間違えないんじゃないだろうか。先輩が失敗してきたことを外していったらいいんじゃないか、って思ってきたから、自ずからいろいろ見えてくるんじゃないかと思った。古きを訪ねる。人生の中の大きな部分を占めている。

竹村
源氏物語絵巻の再現のお仕事をされていたと思うんですが。

吉岡
僕は文学部の人間だったんですが、日本の色を考えていると、必ず古今和歌集とか和歌にぶつかるんです。40になってもいっかいよまなあかんな、と思ったわけです。そこで思ったのは今の小説家の文学力はぜんぜんダメだなと思ったんです。取材力も。紫式部という人の取材力は凄いなぁと思ったんです。自分の色を出す過程に、源氏物語っていうものと対峙しようと思いました。来年が紫式部が書いて1000年だそうです。京都で1000年記ってことでやろうとしているらしいんです。

紫式部という人は喪に服すことができなかったらしくて、黒の下にものすごい真っ赤なものを来ていたそうです。そういう場面を見ていただこうと思って下は紅花の真っ赤なんです。襲の美学っていって表に出さずに下に、透けて見えるってことを平安朝の人は非常に重視していた。

光源氏がマラリアのような病気にかかったっていうときに、山にあがっていくとき、たたずまいがいい家にはきっといい女性がいるはずだっていう男性の感が働いたんですね、そのときに出会った女性が、山吹の襲を着ていたっていうんですね、桜が散るときに山吹の花が咲くんですが、季節にあった色を着ていたその女性はただものではないぞ、っていうんです。光源氏の目にかなった女性は季節にあった色の服をきていたって話なんですが。黄色はくちなしで染める。それは平安朝の頃に「これはなに色で染めたんですか?」って聞いたときに返事がなかったっていうんでくちなしだそうですが。平安朝の人ってのは季節のあった色を着ているっていうことが非常に大事だったんです。

光源氏が紫の上と出会う重要な一帖である。

光源氏は治療のため北の山へ向かう。
三月の晦日なれば、京の花ざかりはみな過ぎにけり。
山の桜はまださかりにて、……
都では桜の花が散り、 山のほうはまだ残っているというころである。
光源氏は僧都の加持をうけたあと、とある小柴垣のある庵へ向かう。
きよげなるおとな二人ばかり、さては童女(わらはべ)ぞ出で入り遊ぶ。中に十(とを)ばかりにやあらむと見えて、白き衣、山吹などのなれたる着て、走り来たる女子(をんなご)、あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじくおひさき見えて、うつくしげなる容貌(かたち)なり。

そこには童女が遊んでいたが、その中に「白き衣、山吹などのなれたる着て」 走り出てきた女の子は、美しい容姿であった。
桜の花が散ったあと、山吹が美しい赤みのある黄色い花をつける。この気品のある少女は「季にあひたる」襲(かさね)の衣装を着ていて、それが夕陽に透けるさま、 成人すればさぞかし麗しい人になるように思われた。 紫の上と出会う、感動的な場面である。
ここでは支子(くちなし)の実の黄と、刈安(かりやす)の黄色で染めて、 山吹の襲をあらわし、文に沿うて、白き衣を添えて、 夕陽に輝くような山吹の襲をあらわしたものである。

竹村
コスメティックスって言葉にコスモスって宇宙って言葉が入っていて、宇宙から色をもらって身にまとうって意味の残響を感じるんですが、歳時記、季節にあわせた色を身にまとう。21世紀、僕らも世界を身にまとうって文化をつくっていきたいと思っているんですが。

吉岡
最後は、自然の色を身にまとうってことをしたいってことにつきるなぁ、と思うんです。なにか自分の中に色とか形をおこうってのは、自然に対する畏敬と畏怖ですな。

これは光源氏が花宴(はなのその)ってとこに行くときの衣装なんですが、うっすらと桜のように見える。これは鈴虫のとこですね。源氏物語の直衣。藍から紫の色をつくるのが通例になっていますが、藍だけで染める場合と紅花をかけて紫にするということもありますが、藍と藍が重なることでふたあいとなります。赤が強い紫を着るときは若いときにしておきなさいと、光源氏がさとす場面があります。呉の国から来た藍だから呉藍っていったりします。紅花は実はエジプト原産のもので、シルクロードを逆にたどってきたものです。こんにちの黄色は科学的に合成された色ですが、1500年より前は全部紅花でした。
光源氏は南殿の桜の宴のあと、酒の心地よい酔にまかせて、藤壺に会いたいと禁中をさまよううちに朧月夜と出会う。そのあとの一カ月後、右大臣邸の藤の花の宴に招かれた。

桜の花はおおかた散ったが、遅れて咲く桜が二本あると聞いた。

桜の唐(から)のおんなほし御直衣、葡萄染(えびぞめ)の下襲(したがさね)、裾(しり)いと長く引きて、皆人はうへのきぬなるに、あざれたるおほきみ姿のなまめきたるにて、いつかれ入りたまへる御さま、げにいと異(こと)なり。花のにほひもけおさひて、なかなかことざましになむ。

そこで光源氏は、思い切って桜の唐の綺(き)の御直衣といった、ややくつろいだ上着に、葡萄染(えびぞめ)の下襲(したがさね)を引くといういでたちにした。
多くの人は正式な衣裳なのに、あえてお洒落なものにしたのである。
直衣の桜色は下に濃い紅花で染めた上に、生絹の白をかさねて、透過して桜花の彩りに。
下襲は、高貴な彩である、紫草の根で染めた紫の表裏。指貫(さしぬき)は香染、すなわち丁子(ちょうじ)の蕾で染めた。

十二単がきにくわないんですが、全部十二じゃないんですね。3,5,8くらいで着ます。写実的に桜だとか、柳だとか模様があるわけではなく、ゲームなんです。香りをかぎとっているんですね。

竹村
元々、かしこまった美学というかゲームですね、いかに多次元的なゲームを展開するか。言葉なんて若の交換なんて全部ですね。

吉岡
手紙もちゃんと、染めてださなければならないんです。季節にあったものをつかっていないとダメなんですね。平安朝の人たちっていうのは基本的に顔をだしませんから、余計想像力が高まるんです。そのぶん手紙のやりとりや、いろいろ造作をつけたものを送る。今の季節がわからないひとはもうダメだということになります。平安朝の人はある意味ゲームをしているんですが。

竹村
しかしそこで諸文化がシルクロードで集まってきて、万葉の時代に集まってきたんですが、それを発酵させるようなプロセスでここまできたんだと思いますが、探り合いをするような知的なゲームは日本独特なものなんでしょうか

吉岡
桜の襲は桜の木で染めてるんじゃないんです。なぞらえる文化。そのように思う。見立てる。そういうことが非常に優れた文化の基盤として残してくれた。これは周防の襲なんですね。光源氏は女性の顔をみてはいけないんですが、後ろからすだれをぱっと見てですね、女の人をいろんな花にたとえる場面がありますね。近親の人が亡くなったときほど黒いものを着る。遠い人ほど薄い黒を着る。そのとき以外は非常に鮮やかな色を着ています。普段はモノトーンな色を着ない。

竹村
着て歩く姿そのものが一つのインテリアディスプレイになっていた。

吉岡
女の人は牛車に乗って出かけるんですけども、牛車からちょっと出しておくんですね。それを見て男性から手紙が来る。

竹村
正倉院のものを見て美しいと思いますけれど、どれも褪せているんでしょ?

吉岡
そうでもないものもありますね。

化学染料と我々のものを比べると、化学染料の方が強いですね。絵錦という平安時代における宮中の行事についての書ですが、平安時代にかかれた絵錦にある色を染めていればだいたい間違いが無い。だいたい30何種類しか書いてないんでね。かなり選ばれたものがかかれている。日本ていうのはそういうものがかかれて残っているってのがありがたい国なんですね。正倉院はお宝より文書の方がたくさん残っている。一生かかっても読み解けないほどのおびただしい文書が残っています。そういう中に、あるいは産地まで書いてある。

竹村
偉い人の特別の作品が残っているのは他の国でもあるけども、一般の人の戯言まで残っているのは日本だけですね。植物とコミュニケーションしていくということ。人類のソフトウェアを世界に継承していくということの貴重な役割をされていると思うんですけども。

吉岡
1990年代。環境問題や食べ物の問題など出てきましたけども。産業革命以後に出てきた化学染料にせっけんされてしまってですね。今普通だと思っていることが環境問題やオーガニックなどにオーバーラップしてきたんですね。紅花を染めるのに藁灰がいるんだけども、今どんどん藁がなくなってきている。わらを燃やしてあくをとる。あくをとれば役が終わるんですけども、それを陶芸家がとりにくるんですね。自然と循環するようになっている。2000年くらいからドイツとかイギリスでそういう仕事を発表する機会があったんですが、これらの国が化学染料を発明した国なんです。イギリスの教会で展示したんですが、みんなうそおというような反応なんですね。18世紀以前はナチュラルな顔料で染めていたということが、我々は普通のことなんですが、それが珍しいことという時代になったんですね。

祇園祭が華やかになっていく時代っていうのが、大航海時代なんです。祇園祭の矛の装飾ってのは6-7割くらいは、その当時から既に輸入品なんです。そういう時代ってのは世界中天然染料だったんですが非常に華やかな色だったんです。

デンマーク、スウェーデンはともかく、いわゆる染屋っていう人はほとんどいない。ヨーロッパも、アルプスの北と南でずいぶん色が違う。色の文化というのは一つでくくりにくい。私自身は、今に通じないと困るんだということがありますんで、そういう発展への緊張感で仕事をしていますが、どんどん使っていただきたいという気持ちが自分にはある。

色が昔とずれちゃってるんじゃないかって不安はいたるところであります。正倉院とかときどき、裏を見ちゃうんですけども、ひがあたってないから恐ろしいくらい残ってるんですよ。これをみてしまうと勝てないなと思ってしまいますね。

ナイロンとか人間がつくった素材っていっさい染まらないんですこれ。機械で紡績したものもやむなく使うことがありますが、なるべく手で紡いだものを使っています。骨董好きの人はよく言うんですが、古い方がいいものが多いんですよ。色の場合は奈良と飛鳥時代ですが、もういっぺんあるんですよ。それが桃山時代。大航海時代で伝わってきたからだと思います。江戸時代になると大衆化しますから、全体的な質としてはだいぶ落ちます。

竹村
尾形光琳とかピークがありますよね。鷹峯の工房、光悦村だとか、文化センター。社会的な母体が必要なのかって思うんですが。

吉岡
一回光悦のように、家康から領地もらってみたいもんですな。

合理化すると必ず失敗するんです。早く終わりたいから早くすまそうとすると必ず失敗します。自然の流れに即してやらないと、必ずなにかに弊害が出ます。

「ときにあいたる」という言葉が源氏物語にたくさん出てきます。

どういった色目に品格を感じるのか。むらさきあおあかきしろくろって、冠位十二階に関係する色があありますが、世界的に2000年くらい前から、紫が高貴な色だとされていますね。日本では藤原氏も藤ですから紫に通じますし。我々染屋やってますと、紅花の真っ赤と紫は難しいんですね。難しい色と高貴な色は不思議と繋がっていますね。

居酒屋の真っ赤な看板とかなんとかならないかなあと思ってるんですね。しかし、なんでも赤だからいやだというのではなくて、素材の持っている底色というかね、深淵なるものを大事にしてほしいなぁと思ってるんです。できるだけ自然の情景を見て、そういう色を写していただきたいなあと思っています。

寒の紅っていいますけど、寒いときでないと色が出ないんですね。東大寺のお水取りに備えてるんです。